先日、興味深い話を読みました。
中学受験専門のプロ家庭教師の方が書いたコラムです。
詳細は、是非本文をご一読いただきたいと思いますが、簡単に要約すると、タワーマンションの上層階に暮らす子供は、成績が伸びにくいそうです。
筆者がタワマンの家を訪ねたとき、いつも住空間の違和感を感じるそうです。タワマンの上層階は、窓が開かず、部屋は年中エアコンで温度調整されています。一見、快適そうに思えますが、それが逆に刺激が無さ過ぎて良くないのだとか。
人間は、変化のない空間にずっといると、身体感覚が育たず、いろいろなことに興味を示さなくなると筆者は書いています。タワマンの上層階に暮らす子供はすべてダメかといえば、そんなことはないけれど、実体験が乏しいために物事をイメージできず、理解するのに時間がかかる傾向にあるそうです。
ヒトの歴史は、科学技術に代表されるように文明の力によって発展してきました。日本の歴史で言えば、狩猟採集の時代だった縄文時代から、農耕の時代である弥生時代(※1)に入り、そこから『脳の世界』へと入っていったと言えます。
ヒトの発明した農耕は、「蓄積」と「分業」を可能にしました。ヒトは、穀物などをより計画的に生産し、それを蓄積することによって、飢餓などの自然のリスクに対処することが可能となりました。また、農耕は「田畑を耕す人」「水路を作る人」「苗を植える人」「道具を作る人」などの分業が可能で、分業を促進することで生産性が向上しました。この「蓄積」と「分業」を最大限にまで拡大してきたのがヒトの社会であり、19世紀の産業革命によってマルサスの罠(※2)をも超え、現在のタワマンのようなバーチャル環境を生み出すことができる世界に到達したのです。
近年、教育現場(特に大学)で問題になっているのが、物事を考えることが不得手な子が増えたことです。この原因について、子供の頃からネットに親しんできたことで、何でもかんでもネットで調べる癖が付いてしまい、自分で考えることを普段から行って来なかったからだという考えがあります。私は、これに加えて都会という脳内でしか生活していないからだと思います。人は、利便性と引き換えに自然性を失ってしまったのです。
私は、山へ帰れとか過激なことを言う気は毛頭ありませんが、たまには自然の中で生活し、不便を自分で克服するような体験が大切だと思っています。自分の思い通りに行かないからこそ、そこに工夫と妥協が生まれ、考える力が身に付くのだと考えているからです。
帰りなんいざ、田園将に蕪(あ)れんとす
さあ帰ろう、田園はまさに荒れようとしている
中国の田園詩人、陶淵明の帰去来の辞という詩の冒頭ですが、これに倣えばさしずめ、
帰りなんいざ、人間将に蕪れんとす
といったところでしょうか。
最近キャンプに行くと、大音量で音楽を聴いたり、プロジェクターで映画などを観たりしているのを見かけることが多くなりましたが、そういう人工物を自然の中に持ち込むのはどうかと思います。色々なキャンプギアと言われる文明の利器を持ち込んでいる私が言うのもなんですが、やはり自然を感じ、不便な生活を体験することが、ヒトにとって大切な自然性をとり戻すことに繋がると思います。
歴史的視点で考えると、ヒトの科学技術は、その成長速度が加速しているのか減速しているのかはさておき、着実に自然を征服していくことでしょう。いずれ、台風などの自然の脅威をも克服し、地震ですら震度8でも脅威では無くなるかもしれません。
そのような、完全に自然を克服した世界で、ヒトはどのように生きていくのか想像もつきませんが、快適で何の刺激も無い世界だとしたら、ヒトはきっと退化していくのではないかと思います。
もし、蚊にも刺されたことが無い世代が出てきたら、この世界はいったいどうなるのだろうと不安を感じるのは、私だけでは無いと思います。
うちの子は・・・
土をほじくって、ミミズを集めて喜んでるような子ですから、大丈夫そうです(笑)。
※1.縄文時代にもマメやクリを生産しており、原初的な農業が成立していたことが近年の研究で明らかになってきたが、本文では分かりやすさを優先し、農耕は弥生時代からとしている。
※2.マルサスの罠とは、急激な人口増加は、食料不足による飢餓によって制限されるという人口論。この罠によって、人口は常に制限を受け、19世紀までは、世界中の地域で一定以上に人口が増加しなかった。